こんにちは、しばたくです。
北京には、二度の駐在で合わせて
9年間暮らしました。
最初は2005年から2007年
2008年の北京五輪を目前にして、
街全体が大きく変わっていた時代です。
そして二度目は2019年から2024年。
今度は赴任して間もなくコロナ禍が始まりました。
同じ北京でありながら、
私が見た二つの北京は、まるで違う街でした。
そして、その間に私自身の生活も大きく変わりました。
この記事では、その二度の北京生活を、
自分自身の記憶とともに振り返ります。
再び中国へ
2003年9月に広州から、東京に戻った私は、
新卒から10年勤務した 電機メーカーを辞めて、
関西の電子部品に転職し、
大阪へ引っ越しました。
新しい会社で担当したのは、北米向け商品の海外営業でした。
新しい会社の環境にとまどうと同時に、
北米の仕事に
「何かが違う」
と違和感を強くしました。
中国で感じた熱気、市場そのものが大きくなる
ダイナミックさを感じられない。
それが感じていた違和感でした。
この会社の職場が合わなかったことも大きいのですが、
再び中国の仕事をしたいという思いが強くなり
入社後半年で、転職を決意して、
転職活動を開始しました。
結果として、当時 中国人材を募集していた、
自動車メーカーに採用が決まりました。
入社、1ヶ月で北京へ
2004年12月から、自動車メーカーに入社し、
東京の中国部門に勤務する予定でしたが、
入社前に人事から電話があり、
入社後すぐ北京に赴任してほしいとの打診があり、
私は受けました。
通常はビザの手続きや予防接種もあり、
中国赴任は半年近く前から準備するものですが、
この時は2004年12月に入社し、
1ヶ月後の2005年1月に北京に赴任をしたのです。
2008年の北京五輪に向けて活気づく街
2005年1月から北京で住んだのは、
王府井の東方広場内のサービスアパートメントです。
グランドハイヤットホテルが隣接し、
一階と地下には大きなショッピングモールがありました。
王府井が、北京の中心だと感じました。

以前、香港の友人から
「北京には、大きな田舎のような雰囲気がある」
と聞かされていました。

確かに故宮や天安門も、気軽に散策でき、
首都でありながら、ゆったりとした落ち着きを感じました。

タクシーに乗ると、北京っ子の運転手は議論好きで、
色んな話題を聞き取りづらい、
巻舌の強い北京語で話しかけてきます。
歴史的な建築物も多く、
「あぁ、中国に住んでいるな」と実感しました。
2005年12月 日本で結婚式を挙げ、
翌年には妻も北京に来てくれました。
妻と中国の各都市を旅行し、北京市内を巡りました。
また、日本からお互いの両親、姉妹家族も遊びに、
よく来てくれて、妻の両親と行った西安の兵馬俑、
私の両親と登った万里の長城は良い思い出として
残っています。


仕事は中国に自動車販売のネットワークを
広げる業務の管理職を担当し、
中国の各地を飛び回りました。
北はハルピン、
西は新疆ウイグル自治区 ウルムチでは
さらに周辺の都市まで砂漠の中の道を車で走ったり、
チベットのラサには3度 行きましたが、
何度行っても高山病のような症状に襲われました。
酸素が薄く夜寝付けず、
日中も強く肩凝りのような症状で身体が重く。
帰りの飛行機に乗って酸素を浴びた途端、
身体が一気に軽くなったことを覚えています。
街の開発も進んでいました。

2008年の北京五輪に向けて地下鉄の工事が進み、
メイン会場となる「鳥の巣」も姿を現していました。

2007年にはプレ五輪大会があり、妻と柔道を観戦しました。
当時の斎藤監督をお見かけし、
写真撮影をお願いしたら快く応じてくれました。

(2007年11月撮影)
残念ながら2008年の北京五輪本番を見ることはなく、
2007年末 日本に帰国することとなりました。
戻ったのは、名古屋の中国部門。
また、中国赴任をする気は満々でした。
2度目の北京
その後、 2010年〜2015年 6年間の広州駐在、
さらに、3年間の日本勤務を経て、
2019年から2度目の北京駐在が始まりました。
今回は、家族が後から来ることが、確定していたので、
子供たちが通学する予定の日本人学校の
近くのマンションに住むことにしました。
そのマンションは、 2005年に駐在した頃もあった
マンションで、その時もそこそこ古いマンションだったの
ですが、さらに年季が入っており、
なかなか北京は日本人が家族で住める物件が
増えてないなと実感しました。
短かった家族との生活
2019年9月、夏休みが終わり、
2学期が始まるタイミングで、
家族が引っ越して来ました。
学校までは歩いて5分でしたが、安全上 親が送り迎えするか、
スクールバスに乗って通学するように決められていました。
子供たちを学校の門まで、
そしてスクールバスが利用できるようになってからは、
マンション内のバス乗場まで見送って出勤する。
幸せな日々を過ごしました。
その時、娘たちは、まだ小学校4年生と1年生で、
本当に可愛かったです。
ただ、年明けから徐々に状況が変わりました。
武漢を中心としてコロナ感染が広がり始めました。
2020年1月 下旬の旧正月の長期連休も
北京で過ごす予定でしたが、
コロナ感染の広がりから急遽 家族3人分のチケットを手配。
家族のみを一旦 日本に帰国させるつもりでしたが、
その前日 会社から緊急帰国指示が出て、
私のチケットも追加手配をし、家族4人で東京に戻りました。
ちょうど旧正月の連休中だったので、
日本に滞在し、会社から北京に戻るよう指示があったので、
家族を日本に残し、一人で北京に戻りました。
戻ったあと、街には車も少なく、
バスにも誰も乗っていなかったことを覚えています。


芳草地国際学校
長女は広州駐在時、インターの 幼稚園に通っていました。
北京でもインター校に通わせたいと思い、
方々調べましたが、
北京のインター校は高額過ぎて諦めていた所、
妻が北京の公立小学校に国際部があるとの情報を
得て来てくれました。芳草地国際学校でした。

公立学校なので、授業料は十分に負担できるレベルです。
入学試験を受ける前、娘に
「日本人学校の友達と離れることになるよ。大丈夫?」
と聞いた所、
「全然 大丈夫。現地の学校に通いたい。」と
力強い返事が返ってきて驚いたのを覚えています。
入学試験に合格し、
2020年2月 春節明けから通学する予定でしたが、
コロナの緊急帰国のために、それは叶いませんでした。
コロナの影響で学校も閉鎖中だったため、
ビデオの学習教材で自習して、
先生から出される課題を親がグループチャットで受け取り、
それを先生に提出して先生に採点してもらうという
形式でした。
長女は日本の小学校に通いながら、
北京の学校の課題も提出するという生活を
夏休み前くらいまで続け、
もう北京に戻れないだろうということで、
芳草地国際学校は退学手続きをしました。
今でも、娘はこの学校を思い出して、
「もし通っていたら中国語ペラペラだったろうな、
パパよりも話せたろうにな。」と言うのです。
コロナ禍の北京
コロナ対策でのマンションの隔離対策は
当初緩やかだったのですが、
途中からマンションのスタッフではない
「社区」と言われる地域の組織の方が
管理するようになり一気に厳しくなりました。
マンションと隣接するホテル、
ショッピングモールのエリアの入り口は完全に封鎖され、
住民や関係者しか出入りできなくなり、
宅配物もデリバリーの食べ物も、
出入り口まで出て受け取る形となりました。
そして、QRコードによる入出場管理も始まり、
事務所のビルに入るのも、
ショッピングモールに入るのも、
公園に入るのも、
タクシーに乗るのも、
QRコードによるチェックが必要となりました。
PCR検査を並んで受けることが日常となりました。

(2022年11月撮影)
日本と中国を結ぶ直行便も途絶え、
その後 2年間 私は日本に帰ることができなくなりました。
そして、青島から日本への便が復活してからも、
事前のPCR検査、
そしてその結果のシステムへのアップロード、
さらに中国に戻ってからの数週間の隔離措置があり、
日本に一時帰国することも簡単ではありませんでした。
北京では一瞬、
スーパーで食料品が不足する事態が起きたのですが、
すぐに回復し首都北京の食料とライフラインは
絶やさないという徹底ぶりを感じました。
私は外出を控え、長く感染せずに過ごしていましたが、
一度だけ感染しました。
当時は感染が判明すると、隔離施設へ移されると
聞いていました。
症状が軽かったこともあり、私は感染を申告せず、
自宅から出ないままリモートで仕事をして過ごしました。
ほどなくして、急にコロナ規制が緩みました。
日常を取り戻す中での別れ
2023年には、かなり日常が戻りました。
しかし、年初のタイミングでは北京から日本への直行便は、
まだ無く、また事前のPCR検査が必要でした。
そのため、1月に母の危篤の連絡を受け、
急いで帰国準備をしたものの、
青島へ移動して搭乗を待っている時に
母が亡くなったことを知りました。
2023年の中頃には、東京から北京への直行便も復活し、
8月に家族が北京に遊びに来てくれることになりました。
先行して娘たちが北京に到着。
娘たちとマンション内でバスケをやったりテニスをやったり、
公園を散策したりしました。
その頃 柔術の道場に通っていた私は、
娘たちにも道着を準備して道場に連れて行きました。
館長は親切にも娘たちのためにプライベートレッスンを
してくれ、私は通訳をして内容を伝えました。
娘たちも館長の人柄を分かり、
柔術が私にとって大事なものであることを
理解してくれました。
今でも柔術を続けることを応援してくれています。
娘たちに続いて、妻が来る予定でしたが、
突然 父が亡くなったとの連絡を受けました。
妻のフライトはキャンセルし、
娘たちに事情を話し翌日には日本に帰国しました。
家族の楽しい時間は、突然終わりました。
2023年は母と父が亡くなってしまい、
告別式と四十九日の法要と、合わせて4回も帰国しました。
私は両親が帰してくれたのかなと思いつつ、
実家の整理をして、
大学入学以降 疎遠になっていた故郷の方々ともやり取りし、
故郷との関係を少し取り戻せた気がしました。
寂しさの中 自分と向き合った時間
北京で一人で過ごす中で、
どうしても寂しさを感じ、何とかしようともがき
自分とも向き合いました。
何かを始めようと、どこかに属したいと考えて
柔術に出会いました。
また、一人でもできるランニングは続けました。
「孤独」をキーワードに本を探す中で、
岡本太郎氏の
「孤独が君を強くする」
「自分の中に孤独を抱け」と いった書籍に出会い、
岡本太郎氏の孤独を恐れず自分を貫く姿勢に圧倒されました。
何とか前に進みたいと考え、
コーチングという手法があることを知り、
幾つかのセッションを受けましたが、
その延長線上で、
Lyustyle氏の 「50歳からのブログ運営戦略」
という書籍に出会い、
Lyustyle氏にコーチングを申し込み、
このしばたくブログが生まれました。
北京で一人で過ごした時間の中で、柔術やランニング、
そしてブログが生活の中に入ってきました。
再び環境を変えたいという思いの芽生え
2023年で北京駐在も5年目に入りました。
同じ部署で、ほぼ同じ仕事です。
今まで、一つの部署業務に従事したのは最長で3年だった
私にとって、
5年は長く状況を変えたい、
環境を変えたいという思いが強くなりました。
2024年に入り、
8月には、家族と友人家族が北京に遊びに来てくれました。
私を加えて9人の北京観光を企画し、
まさにツアーコンダクターとして案内しました。
友人家族が先に日本に戻り、
家族だけで上海を旅行し、
本当に久しぶりに家族で中国の街を歩きました。
北京最後の年の楽しい思い出です。
2024年で北京も6年目、どうしても環境を変えたいと思い、
日本への帰任希望を出しましたが、
日本に帰るなら中国から外れる業務。
もしくは北京に残る選択肢もありましたが、
それは希望する方向ではありませんでした。
私はせめて自分で決めたい、
決定する舵は自分が持ちたいと思い、
日本への帰任希望を通しました。
そして、正式に年末の帰任が決まりましたが、
それは予告された通り中国とは無関係の部署。
私は入社して初めて中国の業務から離れることになりました。
北京を離れる前に
北京を離れることが決まってから、
私は北京市内、上海、広州と様々な地を巡りました。
これで、私の長い中国人生が一旦終わることを感じ、
私にとって縁のある場所を訪れ、
記録にも残しました。
二つのベッドルームと浴室がある
広い部屋に住んでいましたが、
東京に帰る際に、
妻からのリクエストでスーツケースを含めて、
荷物は段ボール5箱まで減らしました。
たくさん持っていた、道着も3着に減らし、
たくさん買ってしまったランニングシューズも
2足まで減らしました。
そして、2025年の新年を北京で一人で迎え、
年明けに日本に本帰国しました。
北京を離れる際は、思いの外 特別な感情は生まれず、
私はどの引越しもいつもそうですが、
気持ちは新しい生活に移っていました。
中国を離れても前進したいと思う
中国を通して、私は自分の成長を感じてきました。
2004年、私はもう一度中国で働きたいと思い、
自分から中国へ戻りました。
それから20年。
今度は、自分の意思で中国を離れることを選びました。
50歳を超え、中国の状況も変わる中で、
中国にいることだけでは、
自分が前へ進んでいる実感を持てなくなっていました。
20年6ヶ月の中国生活を離れることは、大きな決断でした。
それでも、自分の舵は自分で取りたいと思いました。
そして、中国から離れた今も、自分の舵を取りながら、
もう少し前へ進んでみたいと思っています。
