55歳の今、1998年の香港に帰りたくなった|『転がる香港に苔は生えない』を読んで

北京生活

こんにちは、しばたくです。

30年近く前の1998年3月から、3年間 香港に駐在しました。
私のその後 20年以上に及ぶ中国生活のスタートでした。
まだ、社会人になって4年。28歳の時です。
20代後半で独身、しかも香港。
当時の思い出は、かなり薄れていますが、
それでも私の海外生活の中でもっとも楽しかった時期です。

その後、転職、引っ越しを繰り返し、
その頃の知人とは誰とも連絡が続いていません。
また、デジカメも本格的に普及する前だったので、
当時の写真は一枚も残っていません。

それでも、その頃の思い出や感覚に浸りたいとき、
私は星野博美さんの
『転がる香港に苔は生えない』を手に取ることがあります。
この記事では、中国返還直後の香港に暮らした私の記憶と、
なぜ この本を手に取るのかについて、
お話ししたいと思います。

1998年3月、香港へ

1998年、私は大阪に本社を置く
電機メーカーの海外営業部門に所属していました。

1994年に入社して4年間。
入社時はやはり海外営業部門だったのですが、
数年間、大阪と東京の国内営業を経験し、
その後、大阪の海外営業部門に戻って、
ほどなくして香港への異動が決まりました。

担当していたのは、銅張積層板と言われる、
電子回路基板を作るための電子材料です。
当時、会社は中国蘇州市に、工場を建設していて、
その商品の中国華南地区の営業担当という役割で
赴任することになりました。

若くして抜擢だったと言っても良いかもしれません。
大学で中国語を専攻していて、
中国語を話せるということが大きく活きました。
ちょうど、その頃 大学の同級生が、
香港の大学で学んでいて、その友人のパソコンは
日本語入力ができないため、ローマ字を使って
赴任前から連絡を取り合っていたのを覚えています。

関西国際空港から赴任する際は、
部署の部長、人事関係者、そして両親も
わざわざ見送りにきてくれ、
部長が両親に「必ず5年以内には帰しますので」
約束してくれていたのを覚えています。

なぜ、香港だったのか?

中国の華南地区を担当するのであれば、
中国、例えば深圳に駐在すれば良いのではないかと、
現在の感覚では感じます。

しかし、私が担当することになった、
東莞、恵州、広州の南沙といったエリアは、
まだまだ雑然としており、物騒というイメージが強く、
独身者を駐在させることはできないと会社が
判断してくれたようです。

香港での仕事や生活

仕事の中心は中国大陸

私の仕事の中心は、やはり中国大陸側でした。
毎週 香港の紅磡(ホンハム)駅から
深圳の羅湖(ローフー)駅を結ぶ列車で中国大陸へ向かい、
歩いて国境を渡り、出国・入国検査を受けて
深圳に入り、深圳のスタッフと合流して
タクシーで東莞、恵州を回ったり、
香港の尖沙咀(チムサーチョイ)にある、
高速フェリーのターミナルから
船で広州の南沙や深圳の蛇口の工場へ営業活動をしました。

そのため、
パスポートは香港と中国の出入国スタンプで埋まり、
1年ほどで更新するほどでした。

また、香港にも工場地帯はあり、香港内でも顧客を
訪問しました。

プライベート生活

住んだエリア

香港では、最初の一年間は香港島側の北角(North Point)。
当時 地下鉄で二駅いったところに
日系スーパーのUNYがあり、買い物は便利でした。
あとの二年間は九龍側の黄埔(ウォンポウ)に住みました。
黄埔は、紅磡駅にも近く、日本人が多く住むエリアでした。
以前、ヤオハンがあった店舗跡にジャスコが入り、
このエリアも過ごしやすいエリアでした。

週末の過ごし方

週末は、55歳になった今と変わらず、
一人で過ごすことも多かったのですが、
知人が増えるにつれて、楽しめるようになりました。

香港は、旧イギリス領でもあったことから、
パブリックのテニスコートが非常に充実していました。
銅鑼湾(Causeway Bay)にある、ビクトリアパークの
テニスコートは、コートの面数も多く、よく訪れました。

黄埔に引っ越してからは、私のマンションの部屋で、
簡単なパーティーを開いたり、
香港の日本語情報誌に広告を載せて、
同じ年の日本人に声をかけて、日本人の集いを
企画したりしました。

時には、旺角(モンコック)で
地元の小さな旅行代理店を訪ねて、船を借りて、
ビクトリア湾で船上パーティーを開いたりもしたのです。
ただ、そんなバブリーな集まりではなく、
飲み物やケータリングを、持ち込んで、
簡単な飲み会を小さな船のうえでやっただけですが、
さすがに船上から見る香港の夜景は素晴らしかったです。

香港島の南側、石澳で香港スタイルのバーベキューを
したことも、懐かしい思い出です。
香港と言えば大都会、
そびえ立つ高層ビル群というイメージですが、
香港島の南側にいくと、
まさに南国ビーチリゾートのような砂浜が広がっていて、
海水浴やバーベキューを楽しめました。

2000年を迎える年越しに、友人と尖沙咀に出かけて、
ビクトリアハーバー沿いがミレニアムを祝う人で
埋め尽くされていた光景も記憶にあります。

啓徳空港がまだ記憶の中にあった香港

1998年3月の赴任の際、私は啓徳空港に降り立ちました。
出張で香港に来た際も感じたことですが、
ビルすれすれを飛んで着陸するこの空港は、
まさに香港に来たことを実感させました。

赴任したばかりの頃に、同僚がテニスに誘ってくれて、
九龍塘にあるパブリックコートでプレイしていると、
啓徳空港へ向けて旋回する飛行機のエンジン音が響き、
何度も頭上を見上げたことを覚えています。

北角で住んだマンションの窓からも、
対岸の啓徳空港が見えました。

この空港は、
1998年 香港に住み始めたばかりの頃の私にとって、
香港を象徴するものの一つでした。

返還直後の香港で暮らす

1998年は、まだ香港がイギリスから中国に返還されてから、一年程度しか経っておらず
様々なものがイギリス領時代の名残を残していました。

私が今との違いを特に感じるのは、
北京語を日常でほとんど耳にしなかったことです
今では地下鉄に乗っても、香港ディズニーランドに行っても、
英語、広東語に加えて北京語のアナウンスを耳にします。

私の記憶では、1998年頃は、
英語と広東語のアナウンスが中心で、
私も香港で北京語を話すのは、
中華料理店で注文をする時と屋台で値切る時くらいでした。

また、香港人が中国大陸への出張を好んでいなくて、
中国大陸への出張手当が、
結構な高額だったのを覚えています。
当時の私には、経済的にも香港が中国大陸に対して
大きな優位性を持っているように感じられました。
まだ香港が特別だった時代だった気がします。

役立った北京語

1998年当時の香港は、返還後1年もたっておらず、
また中国大陸から香港への入境は厳しく制限されており、
北京語(マンダリン)を話す人は、
香港でも少なかったです。
また、話せる人も自分から話そうとしない印象でした。

そんな中、北京語を話す日本人である私は、
ちょっと変わった存在でした。
北京語のおかげで、中国大陸をルーツに持ち、
流暢に北京語を話す同僚、知人と意気投合して
仲良くなれたり、地元の屋台や小さな店で、
価格交渉などをする時に足元をみられることなく、
強気で交渉出来たりして、とても役立ちました。

なぜ香港時代が一番楽しかったのか

20年6カ月の中国駐在経験の中で、
やはり香港時代は最も楽しく、
華やかな時間として思い出されます。

夢だった中国に関わる仕事を、自分の中国語を使って、
28歳で香港を拠点にやっている高揚感に満ちていました。

中国華南を中心に、香港を経由する保税加工貿易が盛んで、
香港は非常に重要な位置づけでした。
その香港に住みながら、
実際に工場のある中国華南を時には一人でタクシーに乗り、
フェリーに乗って、巡っていました。

中国語を専攻し、中国を志していた私は、
まさに今、自分がやりたかったことを実現していると
感じていました。

プライベート面でも、日本人だけでなく、
中国人、香港人、華僑の友人ができ、
日本人であっても留学生の友人もできて、
その後の広州や北京での、日本人駐在員としての生活とは
違う広がりがありました。

また、香港自体も、イギリス領時代の雰囲気を色濃く残し、
28歳の私には、とても洗練されているように感じました。

そして何より、香港はずっとこのまま香港であり
また自分自身の人生も無限の可能性を持っているように思え、
瞬間瞬間を何も考えず楽しめていたのかもしれない
と、
今振り返って思います。

写真も、人とのつながりも残っていない

こんなに思い出深い香港ですが、
当時の知人とは、もうほとんど繋がっていません。
私自身の性分も影響していると思いますが、
その後 引っ越しを繰り返し、
結婚も経て、生活の中心が変わってしまいました。

また、当時はSNSもなく、
つながり続けることも今のように簡単では
ありませんでした。
加えて、デジカメが本格普及する前で、
当然 スマホもない時代でしたので、
写真も一枚も残っていません。

なので、
せめて私の記憶の香港を記事として残したいと思いました。

『転がる香港に苔は生えない』を読むと、あの香港が戻ってくる

星野博美さんの『転がる香港に苔は生えない』は、
香港に留学経験のある星野さんが、
1997年7月の香港返還の瞬間を何とか現地で
自分の目で見たいと、
香港に渡られて滞在された時の記録です。

香港に滞在したタイミングも、
過ごされた場所も私とは異なります。
ただ、返還直後の香港の空気感、啓徳空港、香港中文大学、
そして使用する公共交通機関や訪れた地名を読むと、
自分が香港に滞在したころの記憶が呼び覚まされるのです。

『転がる香港に苔は生えない』は、
友人の紹介で、出版当時読んだ本です。
しかし、今でも時折読みたくなり、
55歳になった今でも開きたくなる一冊です。

55歳の今、1998年の香港に帰りたい

55歳の今、
1998年の香港がふと懐かしくなることがあります。

1998年以降も、広州駐在時代には、
何度も香港を訪れました。
私もすでに結婚していましたので、
まず私自身が変わってしまっています。
家族と訪れる香港も楽しかったのですが、
1998年の香港に思いを馳せたいとき、
語れる友人も写真も何も残っていないことを
さみしく思います。

2001年以降、私の中国駐在は、
広州・北京と本土側での活動が本格化し、
途中で自動車メーカーに転職したこともあり、
仕事の面で香港に関わることは、ほとんど無くなりました。

今、また香港に住みたいかと言われれば、
住みたくはないのが正直な気持ちです。

1998年の香港の記憶を上書きせず、
そのまま残しておきたい
からです。

これからも、人生の中で、
1998年の香港とその頃の自分を思い出したい時が
くるかもしれません。

その時は、また
星野博美さんの『転がる香港に苔は生えない』
を開き、当時に思いを馳せたいと思います。

香港ビクトリア湾から眺める夕陽、2011年撮影。
1998年当時の写真は一枚も残っていません。

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