こんにちは、しばたくです。
2024年12月、広州マラソンを走り終えた翌日、
久しぶりに広州の街を歩きました。
私にとって広州は、
二度の駐在生活を経験した思い出深い街です。
2024年末で中国での任期を終え、
日本へ本帰国することが決まっていました。
「昔訪れた場所は、今どうなっているのだろう」
そんなことを思いながら、
20年以上前の記憶をたどるように、
かつて訪れた広州の名所をもう一度歩いてみました。
初めての広州駐在
初めて広州に駐在したのは、2001年4月でした。
それまで3年間駐在した香港からダイレクトに
広州へ異動しました。
広州に新しく出来た工場の営業責任者のような立場で、
抜擢に近い異動でした。
香港に続き、広州でも中国語の力が活き、
私に新しい可能性を与えてくれました。
住んだエリア
この広州駐在では、越秀区にある
花園ホテルのサービスアパートメントに住みました。
その時代の広州市街地のど真ん中。
当時、広州には外資系ホテルはまだほとんどなく、
四大ホテルと言われるホテルのうちの一つでした。
ロビーが広く、天井高く、壁面の中国画が美しく
経済開発区にあった工場から戻ってくると、
一気にリラックスできたことを覚えています。
私は経済開発区にある工場に
毎日 同僚と乗り合いの車で通い、
月に一、二回 週末は香港に直通電車で向かい、
香港の友人と テニスをしたり、集まったりと
いった生活をしていました。
広州には両親・姉兄や日本の友人も遊びに来てくれました。
その頃 よく案内した名所を、
2024年12月 改めて訪れました。
週末は直通電車で香港へ
広州から香港へ向かうときは、
広州東駅から直通電車を使いました。
広州東駅で中国出国手続きをし、
香港のホンハム駅で入国手続きをします。
香港駐在時代には、
歩いて渡った羅湖の国境を電車を降りることなく、
直通で香港に入っていきます。
2階建ての直通電車に乗ると、私はとたんに
気持ちが香港に戻りました。
香港で活気を感じ、
また直通電車で広州東駅を降り立った時、
私は「うわっ」と熱気を感じ、
「広州に帰ってきた!」と感じたのでした。
香港とは違う、広州の熱気
香港は洗練されていると感じ、友人もいたので、
もちろん好きで快適でした。
ただ、広州で感じる、この熱気は
成長する中国を肌で感じるものでした。
そして、同じ広東語を地場の言葉とする
香港と広州であっても、中国標準語である北京語を
話し理解する広州で、私は中国語での日常会話と
ビジネス交渉で、自分の語学力を鍛えることができました。
職場でも、他の駐在員と異なり、
通訳を介さずスタッフともユーザーとも直接会話でき、
自分の力を活かせていると実感したのです。
中山記念堂から越秀公園へ
2001年当時 広州市内観光の定番は、
中山記念堂からスタートしました。

当時は広州のシンボルの一つで、孫文を記念した建築です。
綺麗な青色の屋根が特徴的で孫文の銅像もあります。


中山記念堂を抜けると、
その奥には道路を挟んで越秀公園があります。

(2024年12月撮影)
公園は緑豊かな小高い丘になっていて、
前日にフルマラソンを走った私は足にこたえました。

最初の駐在の時は、旅行で来てくれた、
もう亡くなった両親とも一緒に歩きました。
二人とも、当時は若かったんだなと実感します。

丘を登って行くと、5頭の羊の像があります。
この像は、昔 広州に5頭の羊が稲穂をくわえて、
舞い降りてきたという言い伝えを表しています。

「羊」も「穂」も広州を表す漢字として使われます。
広州のことを『羊城(羊の街)』と言ったり、
広州と香港を結ぶフェリーのターミナルを
『穂港碼頭(碼頭:フェリーターミナルの意味)』と
呼ぶのです。
さらに越秀公園を下って行くと、南越王博物院があります。
南越王墓から出土した絲縷玉衣などが展示されています。

2024年12月 訪れた際は、残念ながら休館日でした。
ここまでを、だいたい半日で回って、
広東料理を楽しみ、足つぼマッサージで疲れを
取るというのが、定番の観光コースでした。
大きく変わってしまった、広州の中で、
20年以上前の定番コースが変わっていなかったことを
嬉しく思いました。
広東料理を楽しむ
広州の楽しみと言えば広東料理です。
昼は飲茶、夜は海鮮と飽きることがありません。
この日、私は広東料理の老舗『陶陶居』の新店舗で
ランチをしました。

一人だったので、たくさん食べられませんでしたが、
良く火の通った炒飯とぷりぷりのエビ餃子は、
これぞ広州と思える美味しさでした。


最初の駐在を終える
私が1998年4月に、香港に赴任する際、
当時の部長は関西国際空港で、両親に
「必ず5年で帰しますので」と約束してくれました。
香港・広州トータルで5年間。
2003年3月で私の駐在期間は終わる予定でしたが、
大きな問題が起きました。
2003年のSARSの流行です。
この流行で、私の後任となる先輩の赴任が半年
遅れました。
SARS流行中の期間は、コロナ禍に似た状況でした。
私はただただ、日本人第一号の感染者にはなりたくないと
思いながら、終息を待ちました。
約半年後、SARSも終息し、
2003年9月に私は日本に帰任することになりました。
帰任する前に、私は一つの決意をしていました。
それは、会社を辞めてみたいということです。
当時の会社は大阪では有名な電気メーカーでした。
ただ、香港・広州の駐在を経て、
ずっと同じ会社で、会社の保険に入り、
寮に入り社宅に入り、そのまま人生を終えていくことに
大きな拒否感を覚えていたのです。
自分で選びたい、
リスクがあっても自分で人生の舵を取りたい
という気持ちを持って東京へ戻り、
私はその時の自分の気持ちの通り、
2003年12月に京都の電子部品メーカーに転職し、
大阪に引っ越したのです。
2回目の広州駐在
2003年末の転職後、2社目の会社を10カ月程度で辞めて、
2004年12月 3社となる自動車メーカーに転職しました。
2社目の電子部品メーカーでは、
海外部門で北米を担当したのですが、
中国駐在で感じた市場のダイナミックさに飢え、
半年で転職を決意し、当時 中国進出を加速し、
中国人材を募集していた自動車メーカーに入ったのです。
家族で住んだ広州
自動車メーカーに入社後、北京駐在と日本勤務を経て、
2010年から2回目の広州駐在が始まりました。
一回目の広州時代との大きな違いは、
家族と一緒だったことです。
2009年5月5日に生まれた長女が、
1歳になったタイミングで妻とともに広州に来てくれました。
広州の人は、とにかく子供にやさしく、
常に優しい眼差しを向けてくれて、マンションのスタッフも
いつも娘の名前を呼んで、話しかけてくれました。
週末は、幼い娘たちも一緒に、よく飲茶をしたり広東料理を
食べに行きました。レストランで子供がうるさくしても
注意されることもありません。
子供を大切に扱ってくれる、社会全体を感じました。
6年間の広州駐在中に次女も生まれ、
娘たちは広州でのびのび育ちました。
独身時代に過ごした香港にも家族でよく訪れましたが、
目的地はもちろん香港ディズニーランドに変わりました。
東南アジアにも近く、
プーケットやペナンなどの東南アジアリゾートを
訪れやすいというのも広州の魅力でした。
今でも二人とも中国が好きで、
また訪れたいと時々口にします。
一回目の駐在時にはなかったエリア:珠江新城
2010年からの広州では、
珠江新城のサービスアパートメントに住みました。
ここは、2001年~2003年の広州駐在時代には、
まだ無かったエリアです。
2010年初から住み始めましたが、
11月に開催される広州アジア大会に向け、
珠江新城は建設ラッシュが続いていました。
珠江新城に住み、工場のある南沙へ車で40分をかけて、
毎日通勤していました。
新しいシンボル:広州塔
2010年11月の広州アジア大会に向け、
広州タワーが建設されました。
広州の新しいシンボルです。
ここも、日本から家族が旅行で来てくれた際に
案内した場所です。
2024年12月、改めて訪れてみました。

変わらない珠江の流れ
広州タワーの眼下には、珠江が流れています。
珠江デルタと言われる、商業工業エリアの
源泉となる川です。

香港にも続く大きな川の流れ。珠江の流れを眺め、
その流れが香港まで続くと思いを馳せるとき、
1998年4月に始まり、20年以上を経て、
2024年12月で一旦終わりを告げる自分の中国駐在と
自分の生きてきた時間の流れを感じるのです。
広がる広州
広州タワーから広州東駅の方を眺めると、
遠くに中信ビルを望みながら、
広州の街が中軸線に沿って珠江新城へ、
さらに南へと広がってきたことを実感します。

(2024年12月 広州タワーより撮影)
そして広州の街は珠江を超えて、
さらに南沙に向けて南下を続けています。
私が香港で仕事をしている頃、南沙にお客の工場があり、
フェリーで通っていました。
その頃は何もない工業地帯という状況でした。
その南沙のバナナ畑だった土地に、
大きな最新の自動車工場が建設され、
南沙に街ができて、
その南沙に向けて広州から街が南下してきている。
私は中国華南の経済の力強さを感じずにいられませんでした。
私にとっての広州
私にとっての広州はいくつかの顔を持っています。
香港から転勤してきて、香港の人間関係を維持しつつ、
中国語を使って中国大陸内で活躍できた独身時代の広州。
家族、特に幼かった娘たちと一緒に過ごし、
家族に優しく中国人のおおらかさを感じた広州。
そのどちらの時代も、私にとって中国は熱気を帯び、
成長を続けていました。
そして、その中で私自身も中国語を駆使して
活躍できていた時代でした。
広州で感じた熱気は、私の人生に大きな影響を与えました。
その熱気を感じたくて、
私は何度も中国を目指したのかもしれません。
変わりゆく中国を思っても、
なぜか広州は、そして華南は変わらず成長を続けて
いけるように感じるのです。
一旦、私と中国との関わりは、仕事の面でもなくなりました。
しかし、あの熱気を時に思い出し、
自分の人生の舵を再び持ちたいと思います。
