上海から始まった中国30年|大学生だった私の初めての中国一人旅

中国

こんにちは。しばたくです。

30年以上前の夏。
中国語を専攻していた大学生の私は、
大阪南港からフェリーに乗り、
中国・上海へ向かいました。

この旅が、
その後約20年にわたる中国生活の始まりになるとは、
当時は想像もしていませんでした。
事前に手配していたのは、
初日のドミトリーの宿と
帰りの上海から長崎に向かう飛行機のチケットのみ。
あとは全く予定を決めずに、中国に向かいました。
初日の宿をチェックアウトして、
宿を探して上海の繁華街を歩き回り、
ホテルに直接行って部屋があるか聞くと・・・、

どのホテルも「没有(無い)!」の返事ばかり。

当時の中国では、今のようなサービスを
期待できる時代ではありませんでした。
部屋がありそうに見えても、窓口ではそっけなく
「没有(ない)!」
と断られることが何度もありました。

散々断られ、上海の中心から外れた場所で、
ようやくドミトリーの宿を確保しましたが、
安堵のあまり、涙してしまったことを覚えています。

旅の当初は、なんとなく北京を目指そうと
思っていたのですが、
今思えば、8月は中国でも夏休みの旅行シーズン、
またチケット販売は、全く電子化されておらず、
窓口に並んでの購入でした。
連日並んでみても、毎回売り切れでした。
結局、手に入ったのは大連行きの船のチケットだけでした。

大連では、中国人向けの招待所と言われる
ドミトリー形式の宿に宿泊。
ここから、また北京を目指すもチケットは購入できず、
最終的に手に入ったのは、
東北黒竜江の都市ハルピン行きの列車のチケットでした。
列車の時間が、早朝だったため、夜のうちに大連駅に行って
発車を待ったのですが、
深夜駅が閉まってしまったので、駅の前で待つことに。

用心のため、
バックパックはチェーン錠で身体に固定しておいたのですが、
デイバックを抱えて寝てしまい、
デイバックを盗まれてしまいました。
パスポートやトラベラーズチェックは
腹巻に入れていたので、無事だったのですが、
ここで地球の歩き方を失くしてしまったのは、痛かったです。

旅の途中で失くした『地球の歩き方』。
30年以上経って、古本で
当時のものを買い直しました。

ハルピンに到着すると、
親切そうな若者が声をかけてきました。
私を自転車のリヤカーに乗せ、
ホテルまで送ってくれました。

私はてっきり、旅人に親切にしてくれているのだと
思っていました。
ところがホテルに着くと、
思いがけない金額を請求されました。
それでも、その時の私は、とても疲れていたこともあり、
また ここまで親切にしてくれたと思っていた
関係を壊したくなくて、
言われた金額をそのまま払ったことを覚えています。

今思えば、大学生だった私には、
そんなことも含めて初めての中国でした。
ハルピンでは、主に重点大学である、
ハルピン工業大学の招待所に宿泊しました。
そこで、日本人の名前を見つけ、
長らく日本人に会っていなかった寂しさから、
思わずその方の部屋を訪ねました。
ハルピン工業大学で、日本語を教えている先生のご夫婦で、
暖かく迎えて下さいました。

その先生から、

あなたのように中国語を勉強している方には、
中国の表面だけを見るのではなく、
その理由や背景を考えて欲しい

よく、中国の街は埃っぽいと文句を言う人がいるが、
それにも理由がある。」
と言われ、その言葉は、
その後 私が中国に接する時の考え方に
大きな影響を与えました。
私は今も、中国という国を「好き」「嫌い」で
語るのではなく、その背景や理由を知りたい
という気持ちを大切にしています。

上海から長崎に飛ぶ日にちは決まっていたのですが、
またハルピンから上海への飛行機のチケットが
どうしても取れず、
たまたま泊まったホテルにあった日系商社の事務所に
飛び込み、助けを求めました。

親切にチケットを手配して下さり、無事に上海へ移動。
その後、長崎へ向けて帰国することができました。

今は、非常に便利になった中国。
スマホ一つで何でもできます。
でも、苦労はしたものの、不便だったころの中国も
良かったなと、時々懐かしく思います。

あの時の旅がなければ、
そしてハルピン工業大学で出会った先生の言葉がなければ、
私は香港にも、広州にも、北京にも
住むことはなかったかもしれません。

30年以上前、
不安を抱えながら上海港に降り立った大学生が、
その後約20年にわたって中国で働き、
家族と暮らすことになるとは想像もしていませんでした。

今でも中国の記事を書き続けている原点は、
間違いなくあの夏の上海にあります。

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