北京首都の理由とは?歴史と地理を解説

北京生活

こんにちは。しばたく@北京です。
今回、北京に住んで6年目になります。北京は気候は完走していて、冬は寒く、夏は暑く、生活しやすい都市ではないと感じでいます。そんな北京が、どのようにして首都になったのか?この記事では、北京が中国の首都になった理由と歴史的な背景を、ご説明します。

永楽帝の遷都と北平から北京への改称

北京が中国の首都に選ばれたのは、永楽帝の戦略的な決断によるものでした。
永楽帝は1402年に即位した後、北平(現在の北京)への遷都を決意。
当時の正式な国都は南京でしたが、永楽帝は北平に強い愛着を持っており、その地理的・戦略的な重要性も認識していました。
特に、北方のモンゴル勢力の動きが活発になっていたことが、遷都の大きな理由の一つです。

1406年、永楽帝は北京に紫禁城の造営を開始
この大規模な建設プロジェクトは、北京を新たな国都として整備するためのものでした。
1415年には正式に北京の新都造成が始まり、1420年に都城が完成、翌1421年に正式に遷都が実行されました。これにより、北平は「北京」と改称され、明の正式な国都としての地位を確立。

永楽帝の遷都と改称は、北京の歴史における重要な転機であり、彼の決断により、北京は中国の政治的・文化的中心地として発展し、現在の基盤を築いたのです。

北京の地理的・歴史的重要性

北京は、古くから中国の政治的・軍事的な中心地として重要な役割を果たしてきました。

戦国時代と元代の発展

戦国時代には燕の都として知られており、華北地域の政治的・経済的中心地でした。紀元前4世紀、燕の昭王はこの地に都を構え、燕京として発展。

元代には、モンゴルのフビライ・ハンが1266年に大都の建設を開始し、1271年に元朝の首都としました。大都は計画都市として建設され、風水思想や中国の伝統的な都市設計思想に基づいて設計されました。内陸部に港湾を持つ独創的な都市であり、東西交流の一大中心として繁栄しました。

明代の繁栄

明代には、永楽帝が北京を明の正式な首都とし、紫禁城を中心に都市の発展を図りました。
これにより、北京は明の政治的・文化的な中心地となり、北方防衛の要としても重要視されました。

清朝の統治

北京は明末に李自成の乱で反乱軍に占領され、一時的に混乱しましたが、清朝が反乱を平定し、再び北京を都としました。清朝も明と同様に紫禁城を宮廷として使用し、北京は明清両王朝の首都として栄え続けました。

清朝末期から近代までの北京

清朝末期、北京は大きな混乱と変動の時期を迎えました

外国勢力の侵攻

1860年のアロー戦争では、イギリスとフランスの連合軍が北京に侵攻し、円明園が破壊。
この時期、北京は国際的な緊張と内乱の舞台となりました。

義和団の乱

1900年には義和団の乱が発生し、北京は再び戦場となりました。
最終的に、八カ国連合軍が反乱を鎮圧し、北京議定書が締結され、北京への外国軍の駐留が認められることとなりました。

辛亥革命とその後

辛亥革命後、1912年に清朝が倒れ、中華民国が成立
これにより、北京は一時的に首都としての地位を失いましたが、1928年に北平と改称され、文化的・歴史的な重要性を保ち続けました。

1949年に中国共産党が中華人民共和国を建国すると、再び北京が首都として復活
これにより、北京は再び中国の政治的中心地となり、その地位を確固たるものにしました

北京の名称の変遷

北京の名称は、その歴史とともに多くの変遷を経てきました。

古代から唐代まで

古代には「薊」や「広陽」と呼ばれ、春秋戦国時代には燕国の都として繁栄。
漢の時代には「幽州」と呼ばれ、北方の防衛拠点として機能しました。

遼代と金代

遼の時代には「南京」、金の時代には「中都」と呼ばれ、それぞれの時代で重要な政治的・軍事的中心地として発展。

元代の「大都」

元代には「大都」として知られ、フビライ・ハンが新たな首都として建設しました。

明清代の「北京」

明代に入ると、永楽帝の遷都により「北京」と改称され、清朝もこの名称を引き継ぎました。
中華民国時代には一時的に「北平」と改称されましたが、1949年に中華人民共和国が成立すると再び「北京」となり、現在に至っています。

有史以前から周代までの北京

北京地域には、古代から人類が居住していた証拠があります。
特に有名なのが「北京原人」の化石であり、これは約70万年前のものとされ、この地域が古くから人類の居住地であったことを示しています。

周代から戦国時代の発展

紀元前11世紀、周王朝が成立すると、現在の北京地域には「薊」と呼ばれる都市が築かれました。
薊は周の諸侯国である燕国の都として機能し戦略的な位置にあり、政治と軍事の重要な拠点として発展。

戦国時代(紀元前5世紀~紀元前221年)にはさらに重要性を増し、燕の都として繁栄しました。

秦漢時代の再編成

秦の統一(紀元前221年)後、この地域は「広陽郡」として再編成。
漢の時代(紀元前206年~西暦220年)に全国が13州に分割されると、現在の河北省、遼寧省、北京市、天津市を中心とする地域に幽州を設置
幽州は北方の防衛拠点として、また交易の中心地として重要な役割を果たし、三国時代(220年~280年)には、魏、蜀、呉の三国が分立する中で、幽州は魏の支配下に入りました。

唐代から五代十国時代の北京

唐代(618-907年)には「幽州」として知られ、北方および東方に対する軍事的な拠点として重要視されました。

安史の乱とその影響

755年には安史の乱が発生し、唐の節度使であった安禄山が幽州を拠点に反乱を起こしました。この反乱は唐朝の権威と安定を大きく損ないました。

遼の支配

五代十国時代(907年 – 960年)には、幽州は遼の支配下に入り、「南京」と改称。
遼の五京の一つとして位置づけられた南京(幽州)は、遼の南方の政治的および軍事的中心地として重要な役割を果たしました。

遼代から金代の北京

遼代 (916年~1125年)には「燕京」として知られ、南方の政治的および軍事的中心地として発展。

金代の中都建設

金の時代(1115年~1234年)になると、燕京は「中都」としてさらに発展しました。
1153年、金の海陵王は遷都を決断し、中都大興府と改称。この時期、中都は大規模な都市計画の下で発展し、後の北京の都市構造の基盤となりました。

モンゴル帝国の支配と再建

中都はその後、モンゴル帝国によって奪われ、フビライ・ハンの元で「大都」として再建。大都の建設は計画都市としての高度な設計と、東西交流の中心地としての機能を持つ都市となりました。

元代の大都とフビライの都城建設

元代(1279年~1368年)において、フビライ・ハンは1266年に大都の建設を発表し、1271年に国号を「大元」と改名。この新たな首都の建設は、元朝の政治的および文化的な中心地としての役割を担うものでした。

風水思想と都市設計

大都の建設には風水思想や中国の伝統的な都市設計思想が取り入れられました。大都は、内陸部にありながらも港湾を持つ独創的な都市であり、東西交流の一大中心地として繁栄しました。

三重構造の都市設計

大都の都市計画は、宮城-皇城-都城の三重構造を持ち、この設計は後の明清時代の北京にも引き継がれました。宮城には大明殿と延春閣の二大建物があり、政治の中心地として機能したのです。

まとめ

北京は、古代から現代に至るまで、中国の政治的・文化的中心地として重要な役割を果たし、永楽帝の戦略的な決断により首都となり、その後も歴史の中で重要な位置を占め続けました。
北京の名称の変遷や都市構造の発展、多様な宗教の受容など、さまざまな要素が現在の北京を形作っています。

この歴史的背景を理解することで、北京がなぜ中国の首都として選ばれたのかが明らかになり、北京の観光や街歩きが、さらに楽しくなると思います。

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