三国志 蜀 成都の魅力を探る観光ガイド

北京生活

こんにちは、しばたく@北京です。

成都は、三国志の舞台となった蜀漢の都であり、多くの歴史的遺跡と文化が今なお息づいています。
この記事では、成都武候祠をはじめとする観光スポットの詳細や、三国文化が現代の四川省に与える影響について詳しく解説します。

成都武候祠と観光地

武候祠の概要

成都武候祠は、三国時代の蜀の軍師である諸葛亮を祀った廟です。この廟には、蜀の初代皇帝である劉備の墓もあり、君臣が一緒に祀られているのが特徴です。成都武候祠は、武候祠博物館の一部として、南郊公園と錦里古街とともに構成されています。この組み合わせにより、歴史的な背景と観光名所が融合した場所となっています。

アクセス

成都武候祠へのアクセスは、日本から比較的簡単です。成田から直行便が運航されており、所要時間は約5~6時間です。成都双流国際空港からは、市内の地下鉄やバスを利用して移動することができます。地下鉄の場合は3号線で高昇橋駅で下車し、バスの場合は武候祠博物館前で降車します。空港から車で約30分ほどで到着するため、旅行者にとって非常に便利な立地です。

見どころ

武候祠博物館の入り口からは、漢照烈廟(劉備殿)、武候祠(諸葛亮殿)、三義廟が一直線に並んでおり、訪れる人々は順番に見学することができます。劉備殿には劉備の像が安置され、その周りには蜀の家臣たちの像が置かれています。諸葛亮殿には、諸葛亮を祀るための像があり、彼の智謀と政略が称えられています。

三義廟には、劉備と義兄弟の契りを交わした関羽と張飛の像が安置されており、三人の絆が偲ばれます。劉備の墓は、白帝城で亡くなった後に成都に運ばれ、恵陵に埋葬されました。この墓は円墳で、大きな赤い壁に囲まれた道と竹林に囲まれています。

武候祠博物館の構成

武候祠博物館は、その名が示す通り、劉備の名前ではなく諸葛亮の諡号が使われています。これは、中国における諸葛亮の人気を示していると言えます。博物館は、歴史的な展示物とともに、劉備と諸葛亮の関係やその時代の出来事を詳しく紹介しています。

南郊公園と錦里古街

武候祠博物館に隣接する南郊公園と錦里古街は、歴史と現代の文化が交差する場所です。南郊公園では、自然の美しさを楽しむことができ、錦里古街では、古代中国の雰囲気を感じながら散策できます。これらのエリアは、訪れる人々にとってリラックスできるスペースであり、歴史探訪と観光を同時に楽しむことができます。

三国文化と成都

原生三国文化の中心地

成都は蜀漢の都城であり、劉蜀集団の政治、軍事、経済、文化の中心地でした。劉備が214年に成都に入城して以来、成都は原生三国文化の中心地となりました。この50年間、成都は劉蜀集団の最重要拠点として機能し続けました。

三国時代、成都の織錦業は非常に発展し、蜀漢経済の支柱となりました。諸葛亮は特に錦官を設置し、織錦業の管理を強化しました。これにより、成都は「錦里」、「錦官城」、「錦城」として知られるようになりました。また、成都は『三国志』の著者である陳寿の学びの地でもあり、彼が成長し、学問を完成させた場所でした。陳寿は四川南充出身で、著名な学者譙周に師事し、成都で学び、『三国志』を執筆する基盤を築きました。

三国文化の伝承

成都には数多くの三国の遺跡が残されています。武侯祠は劉備と諸葛亮の君臣合同廟であり、劉備の即位場所である武担山、劉関張を記念する三義廟、諸葛亮が費祎を送り出した万里橋、諸葛亮が治水した九里堤などが存在します。特に武侯祠は成都で最も有名な文化遺跡であり、「三国聖地」と称されています。

武侯祠博物館は「錦里」古街を再建し、三国文化と四川の伝統民俗文化を内包しています。また、世界的に有名な都江堰も諸葛亮の手によって維持管理され、後の時代までその効果を持続させました。成都の川劇や曲芸などでも三国の物語が最も多く扱われています。これらの遺跡と文化は、成都が三国文化の伝承中心地であることを示しています。

三国文化の研究中心

成都は三国文化の研究中心でもあり、専門の研究機関や学術団体が存在します。四川大学三国文化研究センター、四川三国文化研究所、成都武侯祠研究展示部などがその例です。また、中国『三国演義』学会や成都市諸葛亮研究会などの学術団体も活動しています。

これらの研究機関や学術団体は、三国文化の研究と学術交流を促進しています。四川省社会科学院が発行する『社会科学研究』、四川省哲学社会科学学会が発行する『天府新論』、成都大学学報などの学術雑誌も三国文化研究の重要な場となっています。これらの取り組みにより、成都は公認の三国文化研究の中心地となりました。

蜀の建国と歴史

蜀の建国

蜀は三国時代の221年、劉備によって四川地方に建国されました。蜀は蜀漢とも呼ばれ、劉備は自身が漢の劉氏の血を引くと主張し、帝位に就きました。彼の帝位即位は、漢王朝の正統性を引き継ぐという意味を持ち、年号を「章武」としました。劉備は名臣の諸葛孔明(諸葛亮)を宰相に任命し、蜀の政治と軍事を支えました。

劉備と諸葛孔明は、黄河流域の魏、江南の呉と対抗しながら、蜀の安定と発展を目指しました。諸葛孔明は周辺の諸民族を制圧し、国内の安定を図るために南方の雲南などに進出し、その地方の開発を進めました。このようにして、蜀は一時的に繁栄し、強国としての地位を確立しました。

蜀の衰退と滅亡

蜀の繁栄は長く続きませんでした。234年、諸葛孔明が五丈原で陣没すると、蜀の勢力は次第に衰え始めました。諸葛孔明の死後、その後継者となった姜維(きょうい)は、孔明の遺志を継いで魏に対する北伐を試みましたが、大きな成果を上げることはできませんでした。

この時期、魏では司馬懿の子である司馬昭が実権を握り、蜀の征服に本格的に乗り出しました。263年、魏の大軍が蜀に侵攻し、劉禅は無抵抗で都の成都を明け渡し、降伏しました。こうして、蜀は建国から約50年後に滅亡しました。蜀が滅ぼされた時、魏も内部で権力闘争が進行しており、2年後の265年には司馬昭の子、司馬炎が魏の皇帝となり、晋(西晋)を建国しました。

三国志と蜀の国

蜀の概要

四川省の別称は「蜀」であり、蜀漢はその四川省よりも広い領土を持っていました。劉備と諸葛孔明が蜀を選んだ理由は、この地方が豊かであり、手に入れやすい状況にあったからです。当時、蜀は劉璋によって治められていましたが、天然の要害に囲まれていたため、外部から攻めるのが困難でした。

劉備と諸葛孔明はこの困難を克服するために策を練り、最終的に蜀を征服しました。劉璋の統治下での蜀は、地理的に守りやすく攻めにくい特徴を持っていましたが、劉備と諸葛孔明はその地理的な利点を逆手に取り、蜀を自分たちのものにしました。この成功により、蜀は一時的に繁栄を享受することとなります。

蜀漢の滅亡

蜀漢の繁栄は長続きしませんでした。蜀漢の滅亡は、いくつかの重要な出来事によって引き起こされました。まず、呉との戦いで関羽と張飛という重要な武将を失ったことが大きな打撃となりました。さらに、劉備自身も死去し、蜀の指導力が弱体化しました。

劉備の死後、諸葛孔明は蜀を支え続けましたが、彼の北伐は失敗に終わりました。北伐とは、魏に対する攻撃を指しますが、これが成功しなかったことで、蜀の国力はさらに衰えました。孔明の死後、蜀漢はさらに弱体化し、最終的に263年、魏の大軍に降伏することになりました。劉禅が無抵抗で降伏したことで、蜀漢は終焉を迎えました。

蜀漢が滅亡した一因として、優れた人材の不足が挙げられます。劉備や諸葛孔明のような指導者がいなくなった後、蜀は有能な後継者に恵まれず、国家としての存続が困難になりました。このようにして、蜀漢はその短い繁栄の後、魏によって滅ぼされる運命を辿りました。

現代の四川省

経済状況

現在の四川省は中国全体から見ると比較的貧しい地域に分類されます。しかし、人口が非常に多く、農業が盛んな地域でもあります。四川省の人口は約1億1104万人で、中国で最も多い省の一つです。このため、農業は重要な産業であり、多くの人々が農業に従事しています。特に食糧、油類、綿、麻、サトウキビ、桑、茶、果物、薬草、たばこなどが主要な農産物として生産されています。四川省の農業生産高は中国のトップクラスに入りますが、農村人口の平均所得は全国平均を下回るため、経済的には厳しい状況にあります。

改革開放の影響により、四川省の地位は大きく変わりました。都市部に住む人々や工業に従事する人々は比較的豊かであり、経済成長の恩恵を受けています。しかし、農村部の経済状況は依然として厳しく、出稼ぎ労働者も多く存在します。四川省からは多くの労働者が広東省などの他の省に出稼ぎに行っており、「川軍」と呼ばれるほどの規模となっています。これらの出稼ぎ労働者は、他の省の労働者と区別されることが多く、数の多さが際立っています。

三国文化の影響

三国文化は成都の伝統文化の中で最も特徴的な重要資源の一つです。三国時代の歴史や物語は、現代の成都においても大きな影響を与えています。成都には多くの三国時代の遺跡や関連施設が存在し、これらは観光資源として重要な役割を果たしています。特に武侯祠や錦里古街などの観光地は、三国文化を感じることができる場所として多くの観光客を引きつけています。

また、三国文化は地域のアイdenティティの一部としても機能しており、地元の伝統や風俗にも深く根付いています。例えば、成都の川劇や曲芸では、三国時代の物語が頻繁に取り上げられています。これにより、三国文化は地域の文化活動や芸術表現の中で生き続けています。

さらに、三国文化は研究の対象としても重要視されており、四川大学や成都の研究機関で三国文化に関する研究が行われています。これらの研究は、歴史的な視点だけでなく、文化的な影響や現代社会への適用についても検討されています。

この記事では、三国志 蜀の都だった成都の魅力と歴史について、ご説明しました。皆さん、是非訪れてみてください。

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